アクティブ・レンジャー日記
高島清掃
2016年08月29日九十九島の会の皆さん(16人)に同行させていただき、グリーンワーカー事業による高島海岸の清掃、動植物調査と遺跡、戦跡の学習をしてきました。
高島は佐世保市の中心部から車で約30分走った相浦港からフェリーで約30分で着きます。前回の日記で取り上げた伊島よりもずいぶん近い場所にあります。
高島も西海国立公園の特徴の一つである九十九島の多島海景観を構成しており、九十九島の中では黒島に次ぐ2番目に大きな島で陸繋島となっており、その陸繋砂州上の平地に集落があります。住人の多くが漁業関係者で水産加工業として「ちくわ」の製造所もあります。佐世保名産となっている高島ちくわの原料は、近くの海域で獲れるアジやエソがふんだんに使用され澱粉等のつなぎは使用されていません。大量生産ではなく工場でひとつひとつ大切に製造され、一般のちくわに比べて魚の量が多いため香りも味も濃厚でおまけに歯ごたえのある食感です。食べ方は、とろ火で焼いたり、加熱した温かい状態で豪快に丸かじりこれが最高です。この味でゆずやわさび醤油で食べると美味さが倍増します。
島には、標高136mの番岳(ばんだけ)があります。この番岳は本土側から平戸五島列島まで見渡せる適地であったため昔より国防上の重要な役割として位置づけられていました。
また、宮ノ本遺跡もあります。これは、弥生時代(2300年~1700年)の遺跡。最南端の番岳と北部の山間部をつなぐ間が平地になっており島の集落の中心部になっていました。ここでは散発的に人骨が出土しており、そのたびに現地の人々は「骨さま」と称した石塚に埋葬していました。最も重要な弥生時代の包含層からは、中央部の墓地から40基の墓と40体の人骨、多数の副葬品が出土しています。墓は箱式石棺、土壙(どこう)、甕棺(かめかん)が混在。石棺は男性が中心で土壙は女性が中心であることから、性別による埋葬法の差別化・区別化があったと推定されます。8体の女性は左手首にイモガイ腕輪をつけて埋葬されていました。弥生時代から宝物として珍重されていたイモガイは、南西諸島原産であるにもかかわらず、宮ノ本独自の加工が施された物が、北海道の有珠10遺跡でも発掘されており、宮ノ本が貝の東シナ海流通ルートの中継拠点だったことが実証されました。その一翼を船で担っていた宮ノ本弥生人は、内陸弥生人に比べ足よりも上腕が発達していたことが判明しています。
そして、時代とともに地形から国防上の役割も強化されていきました。
江戸時代の1640年には平戸藩により番所(警備の詰め所)がおかれ外国船発見など有事の際ここで火を立て(狼煙)小佐々の冷水岳を通して平戸城下に知らせたり、幕府直轄領の長崎にいち早く知らせるため高島から針尾へ早舟(6人漕ぎ)で通報したりしていました。さらに、1941年太平洋戦争が始まると日本海軍によって高島にも軍港防備のための高射砲台が建設されました。
高島番岳砲台は佐世保市が初めて空襲を受けた1944年7 月以降たびたび飛来する敵機に対し砲撃を加え撃墜の記録も残っています。89 式12.7 センチ連装高角砲2 基、97 式聴音機、150 センチ探照灯を装備していました。砲座は解体されましたが、山頂に聴音機跡や探照灯跡、聴音照射指揮所跡や兵舎跡が良好な状態で保存されており、兵舎跡には風呂や発電機の跡がわかりますよ。
番岳山頂は現在公園として整備されており、2カ所の展望台と複数の説明板も設置されています。長尾半島から株分けしたトビカズラもすくすく生長しています。
清掃では、ハマナタマメ、ハマヒルガオ、ハマオモト、ハマゴウ、ハマナデシコ、ハマダイコン等の海浜植物が自生する海岸の漂着物の回収を行いました。休憩に平尾会長の夫人がサービスされるキンキンに冷えたお茶が炎天下の作業にとっては命の水ように感じました。ありがとうございました。
高島の場所:地図の左端の細長い島。