対馬野生生物保護センター

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環境省 対馬野生生物保護センター ニュースレター

とらやまの森第3号

 

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対馬猪鹿考


長崎県自然保護課
千々布義朗

 ツシマヤマネコは対馬の代表的な野生動物として、全国にその名が知られるようになりました。しかし、最近はヤマネコ以外にもマスコミを賑わせている野生動物がいます。それは農林業等に被害を及ぼしているツシマジカと、約300年近く前に絶滅したはずのイノシシです。もっとも、今日対馬各地で出没しているイノシシについては、飼育されていた個体が逃げて野生化したものと考えられています。
 イノシシとシカは江戸時代でも農作物に大きな被害を与えていたらしく、この2種類の動物に関する記述は古い文献(対馬藩「毎日記」等)にも数多く残されています。それは、今日、私たちが当時のイノシシとかシカの取扱いを知るのにも非常に役に立ちます。
 ここでは、これらの文献などにより、イノシシ、シカに関して、私が感じたことなどを思いつくまま述べてみたいと思います。

猪(イノシシ)

 最近、とりわけ、この十年ほどの間に対馬では、シカ、イノシシによる農林被害が増加しています。このことを江戸時代の再来ではないか、などと揶揄する対馬在住の郷土史家の方もおられます。
 といいますのは、藩政時代、世に名高い徳川綱吉の生類あわれみの令(貞享4年、1687)が発令された対馬では、イノシシ、シカによる農作物被害が深刻化し、農民たちは困窮を極めておりました。そのため、対馬藩は総力を挙げて猪鹿対策に取り組んでいます。このうち陶山訥庵(すやまとつあん)が中心となって行った元禄13年(1700)12月~宝永6年(1709)3月の猪鹿追詰はよく知られるところです。この猪鹿追詰は、生類あわれみの令の時世にもかかわらず、イノシシ、シカによる農林被害に苦しむ島民を救うために、イノシシ、シカを大量に捕獲し、とりわけ加害程度の著しいイノシシについては全滅させたという話です。
 しかし、時折、この事業の信憑性を疑問視する声を耳にします。イノシシの生態にも詳しい研究者やベテラン狩猟者は、イノシシはシカと比べるとはるかに捕獲が困難で、その上、繁殖力、行動力とも旺盛で、逆に猟の最中に人や犬が襲われることも多いといいます。また、今日、小笠原諸島などで野生化し、貴重な植物を食害しているヤギの駆除でさえ手こずっているのに、これよりはるかに動きの速いイノシシを、面積も広く起伏の激しい対馬で絶滅させることは極めて困難という声もあります。
 中には、「猪鹿追詰が行われた時代は生類あわれみの令により、動物の殺生が堅く禁じられた時代である。そのため、本来対馬にはシカしか加害獣はいなかったが、名目上、山鯨(動物ではない)と称されたイノシシを捕獲の主対象に据え、実際にはシカを駆除したのではないか。」という、うがった見方をする人もいます。
 この他、猪鹿追詰は藩事業として捕獲の段取りなどは極めて綿密な記録が残されているにもかかわらず、捕獲数に関しては(文献が散逸したせいとも言われてますが)、おおまかに八万余頭という数字が残るだけです。このことは、後の宝暦8(1758)年~安永2(1773)年の「大催鹿狩」では細かいシカの捕獲数が記録されているのと比較すると極めて不自然な感じがします。その上、この時代のイノシシの骨などが出土していないことも、このような疑問が深まる要因ともなっているようです。
 しかしながら、対馬の縄文遺跡からは、野生あるいは飼育個体かは不明ですがイノシシの骨が多数出土しています。また、捕獲数に関しては確かに記録はありませんが、事業への取組状況については対馬藩の公式記録である「毎日記」に詳しく記載されています。例えば、この大事業には883丁もの銃とそれを使う猟師(必ずしも専業ではない)、及び勢子として、10歳以上の対馬島民男子の約2/3の人々(計5千人弱)が動員されたといわれます。中でも驚かされますのは、この事業の最中には銃による死亡事故の発生も多いらしく、銃による死亡事故の取扱についても、跳弾による場合、加害者に故意が認められる場合、及び過失による場合など、様々なケース毎に規定されていることです。当時神域として神聖視され、立入りもタブー視されていた山々(龍良山等)でも猪鹿狩りが実施されています。つまり、それだけ大規模、かつ徹底した捕獲作業が行われたということです。これらの記録からは事業にかける藩の意気込みが感じられ、それだけ、被害も著しかったことがうかがえます。そして、これだけの被害をもたらす動物として、どうしてもイノシシの存在を考えざるを得ないのです。
 この他、これに加えて「猪」という言葉が猪鹿追詰事業以前の文献にも頻繁に登場しますし、猪の害性の記述も極めて的を射たものとなっています。このようなことから判断すると、かつてイノシシは対馬に実在し、かつ絶滅させたことも事実であろうと考えるのが自然な気がしています。しかし、やはり何か確証となるものが欲しい気がします。

鹿(シカ)

 一方、シカに関してはイノシシと比較すると極めて詳細な記録が残されています。対馬藩の「毎日記」によると、宝暦8(1758)年、安永2(1773)年にかけて対馬全島で33,415頭ものシカが捕獲され、最も多い年には1年で5千頭弱が捕獲されています。昭和56年度以降17年間の対馬でのシカ捕獲数が合計1万頭にも満たないことを考えると、いかに多くのシカを捕獲していたかが理解できるというものです。しかもこれは毎年冬場の3ヶ月間、実質20日間という限られた期間内の捕獲数です。
 なお、猪鹿追詰ではイノシシに対する姿勢とシカに対する姿勢ではずいぶん異なっているような印象を受けます。陶山訥庵も、シカはイノシシほどは被害がないのでイノシシを優先的に狩り、シカは程々に狩るべきである、という趣旨のことを言っています。それはイノシシが繁殖力も旺盛で、農作物に与える被害も甚大であるのに対し、シカは一年に一頭しか仔を生まず、加害程度も小さいことによるものと思われます。しかし、単にこういった理由だけでなく、イノシシに続いてシカをも絶滅させることで、何か、別の悪い影響がでることを感じ取っていたような気配があります。特に注目すべきは、「シカは害獣であるが取り尽くさない」という姿勢を明確に出していることです。イノシシを絶滅させるくらいの捕獲技術、能力があればシカの絶滅ははるかに容易のはずです。敢えてそれをしなかったのは何故か。私は当時の時代背景を考えて、単に被害の程度が小さいというだけではなく、思い過ごしかもしれませんが、この姿勢に隠された次のような為政者の意図を感じざるを得ないのです。

1.適正な農地保全を図る
 害獣(シカ)がいなくなると、農民は植えた分だけ収穫が得られるとして、安心して農地(木庭)を拡大する。新たな土地の確保といえば、森林の開墾にほかならず、このことは枝葉等農作物の肥料供給源であり、かつ保水力を有する森林の減少につながる。しかし、これがひどくなると、森林破壊だけでなく、農地の疲弊、収穫の減少となり、最後は土壌浸食も生じてくる。
 つまり、自然破壊、農地破壊につながる農地面積の拡大を防ぐ狙いもあったのではないか。

2.外敵への備え
 対馬は国境に位置し、外敵に備えて鉄砲撃ちの操作に熟達したものを必要とした。銃を必要とするような大型獣を取り尽くしてしまうと、銃を使うことがなくなり、銃の取扱技術も廃れる。そして、いざというときに外敵への対応ができなくなる。
 専業の猟師ではない農民の手元に883丁もの銃が残され、猪鹿追い詰めの際に使用されたというのは、実際に国防上の必要性が存在していたことをうかがわせる。

3.林産物としての有効活用
 シカを農民の食料(肉)や衣服の材料(毛皮)を得るための林間生産物としても位置付けていた。
 魏志倭人伝ではないが、良田のない対馬では米等の食料を島内では賄うことができず、一部を島外に依存している。野生の獣禽を貴重な食糧資源としていたことは容易に想像できる。
 このような意図があったがために、シカをイノシシのように全滅させるのではなく、ある程度は残しておき、被害対策としては定期的な捕獲とともに、柵などを設けてシカが侵入することを防ぐように命じたのではないか、と推測するのであります。

 今日、対馬のシカとかイノシシの問題が浮上すると、つい、江戸時代も同様の問題があり、島民たちも今以上に苦難を味わっていたことを思い浮かべます。
 しかしながら、私たちが考えさせられるのは、農業が主産業の江戸時代において、深刻な問題であった鳥獣害対策を単に駆除一辺倒ではなく、様々な効果を発揮するように仕組んで実施されていたように思えることです。
 野生鳥獣の保護と野生鳥獣による被害対策がより深刻になりつつある昨今、このような優れた先達の知恵を、これからの時代においても学びたいものです。

打ち留めの鹿数(1758~1773)

年号
宝暦8(1758) 2,649 320 2,969
9 4,480 470 4,950
10 2,378 470 2,848
12 1,900 200 2,100
昭和2(1765) 376 30 406
3 2,014 150 2,164
4 755 148 903
5 2,507 366 3,873
6 3,079 116 3,195
7 1,935 50 1,985
8 2,578 401 2,979
安永1(1772) 2,579 337 2,916
2(1773) 2,595 532 3,127

合計

29,825 3,590 33,415

対馬藩「毎日記」(豊玉町誌収録より)


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