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雲仙岳の七秘密

 

 雲仙岳には、一般には知られていない"七つの秘密"があります。雲仙岳は、九州の山岳の中で標高では67位ですが、九州島(九州本土)において意外な役割を果たし、独自の歴史を重ねて来ています。以下では、そんな雲仙岳の七つの秘密をご紹介します。

九州島における

①海上ランドマークの山②守護神まつる山③対岸の校歌に登場する山④ライフサポートの山⑤有明干潟をまもる山⑥産業革命支えた山⑦異文化の波呼び寄せる山

 

 

①九州島の海上ランドマークの山

有明海上に火山島のようにそびえる雲仙岳吉野ヶ里歴史公園から 健軍神社の鳥居から
 

 雲仙岳は、有明海の真ん中にぽっかりと島のように浮かび、周囲に遮るものが何もないため、遠くからでも良く目立ちます。例えば、佐賀県の吉野ケ里遺跡からは雲仙岳がよく見えますが、遺跡の建物配置の中心線は雲仙岳に向かっていることが判明しており、2000年前の人々が雲仙岳を見ながら建物の配置を決めていったことが分かります。また、熊本県の熊本市最古の健軍神社は、参道が1.2kmありますが、まっすぐ雲仙岳に向かって延びています。これは、古代の時代から雲仙岳が有明海沿岸地域の"ランドマーク(目印)"として重視されてきたことを意味しています(参考6)。

 さらに、雲仙岳は大分県(くじゅう連山、祖母山等)、宮崎県(祖母山、霧島連山等)、鹿児島県(霧島連山・長島町等)からも眺望でき、"九州全県から眺望できる山"です。そのような富士山と同様の特性を背景に、全国でも観賞価値の高い特別な山として、"特別名勝"(山岳では富士山と雲仙岳のみ)に指定されています(参考7)。

 このように雲仙岳は、九州島きっての"海上ランドマーク"なのです。

 

②九州島の守護神まつる山

天草上島から 温泉神社(本宮)
 

 雲仙岳は、全国でもいち早く山岳宗教の修行の場となった山で、天草から雲仙岳を眺めた僧・行基が"あそこで修業をしよう"と決めて雲仙岳に向かい、天皇の勅願所として、約1300年前に開山しました。満明寺と温泉神社が開かれ、温泉神社には"温泉山"に宿るとされる"温泉四面神"がまつられましたが、現在の祭神は、九州島に宿るとされる"(古事記に登場する)四面神"となっています。同じ"四面"つながりで、途中でスケールアップしているようです。

 この祭神は、島原半島以外ではほとんどまつられておらず、雲仙岳が九州の精神的な中心地であった時代があることを示唆しています。実際、中世の元寇の際には温泉神社が"九州総鎮守"とされ、祭神が山を下りて元軍を打ち負かしたとの伝説も残っていて、九州中の武将が雲仙岳へ参拝に訪れたと言われています(参考8)。

 このように雲仙岳は、まさに九州島の"守護神まつる山"と言えるでしょう。

 

③九州島で対岸の校歌に登場する山

白石町から 柳川市から
 熊本市から 八代市から
 

 雲仙岳は、海を隔てた対岸からよく眺望できることをご紹介しましたが、実は対岸地域の小中学校の校歌に登場します。佐賀県の白石町、福岡県の大川市、大木町、柳川市、大牟田市、熊本県の荒尾市、長洲町、玉名市、熊本市、宇土市、天草市、八代市等の小中学校の校歌に登場します(参考9)。

 校歌には、学校の教育目標という側面があり、見えているだけでは校歌に登場しませんが、雲仙岳は対岸地域の人々の心に残る、子供に伝えたい風景ということになります。柳川市出身の詩人・北原白秋も柳川市内からの雲仙岳を詩に歌っていたり、夏目漱石が対岸に雲仙岳が浮かぶ玉名市小天温泉の風景を桃源郷と評して"草枕"を執筆したり、幕末の知識人・頼山陽が佐賀や天草方面から雲仙岳を漢詩に歌っていたりと、様々な文人にも鑑賞されています。

 このように雲仙岳は、九州島の有明海沿岸地域における"対岸の校歌に登場する山"なのです。

 

④九州島のライフサポートの山

長洲町から 雲かかる雲仙岳玉名市から 熊本市から

 

 雲仙岳は、有明海沿岸地域では身近な存在で、日々の生活の中に溶け込んでいます。例えば、有明海の漁師さんは昔から、雲仙岳の山々の組み合わせを見て漁船の方角を把握したり、漁場の位置を記憶したりされていた、と言います。

 また、有明海東岸にお住いの方々の中には、曇りの日の朝に出勤する際、雲仙岳への雲のかかり具合を見て、傘を持っていくか否かを判断する、という方々もいらっしゃいます。"天気予報の山"というわけです。一方で、オフィス勤めされる中で仕事に疲れた時には、海岸へ行って夕日と雲仙岳の風景を眺め、癒されるという方々もいらっしゃいます。休日に山登りをされる方々の間では、佐賀・福岡・熊本の山々からは空気が澄んでいないと雲仙岳が見えないため、見えた際の幸せ感はひとしおのようで、その様子は数々の登山ブログで嬉々として紹介されています。癒しアイテム/幸せアイテムにもなっているわけです。

 このように、雲仙岳が各地域の日々の生活に溶け込む中で、地域ならではの会話表現も生まれていて、例えば柳川市内では雲仙岳の形状を見て"どんばらさん(妊婦さん)が寝とる"と表現されます。また、玉名市内では睡魔で船を漕ぎ始めた人を見て"島原さん(島原の方へ)行きよる"と表現されます。対岸の雲仙岳山麓は、船で行かれる身近な"別世界"というわけです。

 以上のように雲仙岳は、有明海沿岸地域における"ライフサポート(生活お役立ち)の山"なのです。

 

⑤九州島の有明干潟を守る山

ラムサール条約湿地に登録されている肥前鹿島、東よか、荒尾の干潟
 

有明干潟と阿蘇山・雲仙岳の位置関係の地図 有明海には、全国一の面積を誇る広大な干潟が広がっており、その豊かな餌資源を求めて海外から多くの渡り鳥が飛来します。そのような国際的に重要な湿地は、ラムサール条約湿地に登録され、適正な保全と持続可能な利用が推進されますが、有明海では佐賀県の鹿島市と佐賀市、そして熊本県の荒尾市の干潟が登録されています(左図の黄色い点)。

 この有明海の豊富な干潟の泥はどこから来るかと言えば、約30万~9万年前に阿蘇山が巨大噴火した際に九州北部全体をカバーした噴出物を、筑後川や白川をはじめとする多くの一級河川がせっせと毎日運び込んでいるものなのです。

 その大量の泥がなぜ外洋に流れ出さないかと言えば、雲仙岳(島原半島)が有明海の水の出入口を狭めているためです。もしも約50万年前に海底火山であった雲仙岳が活動を開始せず、その当時に南島原にあった小さな火山島のままであったなら(半島が形成されていなかったなら)、外洋の波が直接有明海に打ち寄せて、大量の土砂が外洋に流れ出したことでしょう。

 このように有明海の広大な干潟は、阿蘇山と雲仙岳の"阿・雲の呼吸"とも言うべきコラボによって成立しているのです(参考10)。雲仙岳は、阿蘇山とともに九州島の"有明干潟を守る山"と言えるでしょう。

 

 宇土市のみかん畑からの雲仙岳と阿蘇山
 

⑥九州島の産業革命支えた山

三池炭鉱のある大牟田市からの雲仙岳 雲仙岳に放牧されていた島原馬

 

 平成27 年7月に「明治日本の産業革命遺産」が世界文化遺産に登録されましたが、日本の産業革命は、機械の燃料である"石炭"の採掘と、(機械購入のための)外貨獲得の品目としての"生糸"の生産の下で、強力に推進されました。

 全国一の出炭量を誇ったのが三池炭鉱(福岡県・熊本県)で、有明海の底に広がる広大な炭鉱にモグラの巣のような坑道をはりめぐらせて採掘しましたが、機械化が進むまでは石炭の採掘と運搬は重労働で、人力だけで地上に搬出するのは困難でした。そこで活躍したのが"島原馬"です。狭い坑道で労働するには、背の低い体力のある馬が求められましたが、江戸時代より島原藩主が力を入れて生産した島原馬がぴったりでした。島原馬は雲仙岳に広く放牧して生産され、明治~昭和初期は島原半島内で約8000 頭が放牧されていました(参考11)。雲仙岳は、三池炭鉱の石炭産出を実は裏で支えていたのです。

 生糸の生産については、カイコの卵を5度以下に冷蔵保管して休眠させる技術が発明されてから、農家が農繁期を避けてカイコを育てられるようになり、飛躍的に進んだと言われていますが、その冷蔵保管場所が山岳の風穴でした。雲仙岳主峰群の普賢岳には、風穴が10 以上ありますが、普賢岳風穴の温度は夏でも4度程度で安定し、品質の良い保管庫ということで知られ、九州全県をはじめ、全国から卵の保管を委託されました。雲仙岳は、九州島の産業革命を陰で支えていた山、と言えるでしょう。

 

普賢岳の風穴(左奥)から流れ出る冷気 カイコの産卵
 

⑦九州島における異文化の波呼び寄せる山

雲仙岳の立地を示す地図 雲仙岳は、約50万年前に海底火山から噴火を開始して、島原半島を作り出しましたが、その"立地"と"山容"が、その後の雲仙岳・島原半島を、全国稀に見る激動の歴史が展開する場所へと導きました。

 かつて船が主要な交通手段であった時代、中国大陸から船で東に進めば、九州西岸のどこかしらに到着(漂着)するわけですが、九州島の各地に入って行こうとすれば、波の穏やかな有明海と八代海を通って入っていくのが効率的で、有明海と八代海の入口にあたるのが、島原半島と天草下島に挟まれた"早崎海峡"です。有明海の干潟の大きな潮汐によって日本三大潮流となっていますが、この早崎海峡を目指して大陸から渡って来れば最初に目に入る高い山が雲仙岳、ということで、中国では"日本山"と呼ばれていたとされます。

 大陸伝来の仏教もいち早く定着し、雲仙岳は仏教と神道が合わさった山岳宗教の拠点として701年に開山され、"天下の三山"とうたわれましたが、三山のほかの比叡山・高野山よりも100年近く早く開山されています。その雲仙岳が比叡山・高野山に比べて知られていない理由は、中世にヨーロッパからキリスト教が導入されたためで、キリスト教に改宗した島原の領主・有馬晴信は、40以上あった山岳宗教施設を徹底的に破壊しました。南蛮貿易の船はヨーロッパから中国を経て来日するため、口之津港が戦略的拠点となり、イエズス会は島原半島を布教の拠点として重視し、日本での布教の成果をローマ教皇に伝える"天正遣欧使節団"の派遣の際には、島原半島の有馬セミナリヨの一期生4人が日本の代表として選ばれました。

 一転、キリスト教の弾圧が始まってからは、雲仙地獄をはじめ弾圧の拠点となり、世に知られた島原・天草一揆へと突き進みます。12万の幕府軍の派遣によって一揆軍3万7000人はほぼ全滅となり、島原半島の中南部と天草の一部に無人地帯が現れるという空前の事態が発生しました。これに対し、幕府は九州諸藩や全国の天領にノルマを課して住民を集め、全国各地から文化風習を伴って入植が行われ、多様な文化がモザイク状に分布する現在の島原半島の風土が形成されました。(参考12

 このように、雲仙岳(島原半島)の立地と山容が、仏教、キリスト教、九州各地の文化を呼び込み、全国稀に見る激動の人間ドラマが見られる場所となりました。雲仙岳は、まさに九州島における"異文化の波呼び寄せる山"と言えるでしょう。

日本三大潮流の早崎海峡(口之津) 原城跡と雲仙岳

  
 

九州島周遊 旅のしおり "雲仙岳の七秘密シート"

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